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京都発の庭園デザイナー、井上剛宏による日本庭園、景観設計、坪庭、自然外構 |
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造園とは、「景をつくる」こと。
私たちの心の奥に流れる自然への憧憬を鮮やかに切り取って、目の前に展開すること。
石の一つひとつ、樹木の一本一本が、あたかも数百年の昔から、そこで時間を重ねてきたように… |
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「素材の美」と「構成美」との巧みな組み合わせによって、そこに一つの「景をつくる」のが造園。
とはいえ、「素材の美」に囚われて、枝ぶりの立派な松を据えて、春は桜、秋は紅葉、冬には梅を咲かせようと詰め込むような「足し算」は、愚鈍な「モノの美」の陳列にすぎません。
「美の世界」は究極の「引き算」。一つの景を印象的に浮かび上がらせるために、余計なものはすべて捨て去る世界。高価な松や紅葉はなくとも、一坪の上地さえあれば、四季の移ろいを感じさせる庭をつくることはできます。「構成美」が涼都の庭園の生命です。
そのうえで、「なにを見せるか」ではなく、「なにを感じてもらうか」を、造園家はみずから問いか
けます。コンセプトは重要ですが、「この庭はこう見てください」と札を立てるわけにはゆきません。
できあがった景がなにを表現しているのか、それが見る者の心にどう響くか、これがすべてです。 |
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「技術者」と「技能者」との組み合わせが、庭の出来映えの鍵を握ります。庭は、「空間構成」と「細郡千法」との組み合わせだからです。
造園家は「技術者」です。予算やスケジュールも含めて、空間全体をプロデュースする能力が求められます。「ここにどんな世界を描けばクライアントを満足させられるのか」を考えるのが技術者。技術者の描いた理想の世界を具現化するには、優れた「技能者」の力が不可欠です。細部は、その道一筋の熟練の技と締験を積み重ねた「職人」に委ねます。技術者のプランとは別に、匠の技でしかつくりえないものがあるからです。とはいえ、たとえば陶器のように、どんなテクニックを用いて、どんな形の器に仕上げるかを、技能者一人で決定することはありません。技能者が庭を設計すると、往々にして自分の好みや得手に偏り、必然性のある構成美を創出できなかったりするからです。
その逆に、技術者が理想だけで突っ走ると、コンセプトは立派でも細部への配慮が抜け落ちて、結果として「収まり」の悪い庭になります。石のわずかな傾きや樹木の向きなどが、庭企体の仕上がりに影響するからです。技術者といえども、技能を理解していなければ、全体をプロデュースすることはできないといえましょう。庭は、お施者さんと作庭者との共同作品だという言い方ができます。 |
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新たに日本庭園をつくろうとするとき、「従来の庭はいらない」という意見がしばしば出ます。そういうときの「従来の庭」とは、どのような庭園を指しているのでしょうか。千年を超える日本の造園の歴史を、「従来の」の一言で総括することなど、とうていできるものではありません。
みなさんが抱かれる「日本庭園」のイメージは、古い様式美を具えた庭であることが多いようです。たとえば庭木は、きちんと仕立て上げた松を主体につくるものだとされていた時代がありました。そのような流行が、「日本庭園は高くつく」という先入観を植え付けることにも繋がったようです。しかし、これは誤解です。それは一つの様式であって、そうでなければ美しくないというものではありません。
私どもは、庭という空間が見る者の心にいかに新鮮な感動を与えられるか、つくり手がどれだけ新しいメッセージを発信しているかが日本庭園の、つまりは京都庭園の原点ではないかと考えています。 |
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お施主さんが庭に求める理想の世界を形にしようとして、あるいは時代の求める美意識に応えようとして、さまざまな様式美が生み出されてきました。それが自然の成りゆきだともいえましょう。もちろん、長い歳月を積み重ねてはじめて、新しい評価が与えられる庭もあります。そういうなかで私たちは、永遠のものも時々の新風も根源は一つであるという「不易流行」の精神を大切にしながら、どうすれば「井上剛宏らしさ」を表現できるのかと智恵をしぼり、新たな様式の創造をつづけています。現代に生きるお客さまの理想を、旧来の素材や手法、様式に囚われることなく、土の上に表現することが私たちの仕事だからです。
私たちが追求する「井上剛宏らしさ」の根本は「構成美」。一本の樹木、一つの石が、その場で長い時問を重ねてきたかのごとく白然な姿で収まっている、それが「モノの美」に頼らない「構成美」の本質。あたりまえの風景をあたりまえに表現する――私たちが追求するそういう「井上剛宏らしさ」は、「京都らしさ」にも通じます。そこには、その土地の自然や風土が醸し出す「美の世界」があると確信しています。 |
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できあがった庭を見たお施主さんが、「ああ、いいな」と思ってくださるかどうか、理屈抜きに心を素直に預けていただけるかどうか─それが評価のすべてです。
野山に出かけた私たちが、その景色に「心地よさ」を感じるのは、樹木や石たちが、「いまここに生きている」という生き生きとした姿で、あるべき場所に収まっているからです。長い時問をかけてようやくできあがる風景を、人間の手でゼロからつくりだそうというのですから、私たちは真撃な気持ちで白然に学ぶほかありません。
森を散策していると、息をのむほどに印象的な風景に遭遇することがあります。「この景色を再現したい」という夢が叶うのは数十年に一度のことですが、そうした感動を自分のなかに蓄積することで、感性は磨かれます。 |
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庭づくりには、「設計」と「設景」とがあります。「設計」の過程では、庭の全体イメージをマスタープランや設計図で表現し、樹木や石などの素材のボリュームや数量を計算します。建築の場合は、設計図を描き終えた段階で約8割が完成したとされますが、庭づくりの場合はせいぜい2割から3割の進捗です。
「設計」がぺ一パー・デザインであるのに対して、「設景」はグランド・デザインです。命ある素材は一つひとつ形が違いますから、馴染むもの・馴染まないものがあります。設景の現場では、「もうちょっと、こうしよう」という微調整のくり返しです。わずか数センチにこだわりながら、あるべき姿へと「収まり」をつけてゆきます。造園家は、現場でこそ、その手腕が問われるといえるでしょう。 |
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